はじめに
まずこの記事を書くにあたり、この度の地震で犠牲となられた方々に心よりお悔やみ申し上げます。
また被災されました皆様には心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。
私は阪神淡路大震災で被災し、その後も東日本大震災、熊本地震と大きな震災を見てきました。
阪神淡路大震災では死者6434人、東日本大震災では関連死併せて2万2215人もの尊い命が失われています。
※数字は内閣府防災情報1
当サイトでは熱中症で失われる命を救うという活動をしているわけですが、同じ自然災害から人の命を如何にして守るかという観点では一致していますので、その時筆者の感じた事を思いつくままに記録しておこうと思います。
2024年1月1日16時06分 地震発生
その時私は家内の実家である福井県の若狭地方におりました。
年末からの帰省を終え、Uターンラッシュに巻き込まれるのを避ける為に早めに自宅へ帰ろうと車に荷物を積み、玄関前で「お世話になりました」「また来てね」とお互い挨拶をしている時の事です。
義父は入院中、家内は都合が合わず留守番だった為、私、義母、娘の3人だけがその場におりました。
地震発生の直前、私、義母、娘の携帯電話の地震速報アラートが一斉にけたたましく鳴り響きました。
その時は揺れを感じておらず、「ん?訓練か?」とも思いましたが、数秒から10秒後ぐらいでしょうか
縦揺れと横揺れが混じったような強い揺れを感じました。
その時最初に思った事は「全員外にいてよかった」という事です。
万一家屋が倒壊しても、とりあえずは家屋の下敷きになる被害は免れたと思いました。
娘と義母に「家の中に入らないで! 少し離れて!」と指示し、あたりの様子を伺うと電柱と電線が波打つように大きく揺れ、山の杉や桧の大木も揺れて見えました。
私はバイクのレースの世界に身を置いていて、何百件という事故現場の救護に立ち会った経験がありますので、緊急時の判断にはいささかの自信があったのですが、地震という全く勝手の違う災害の前に、「さあ、このあとどうしよう?」と迷ってしまいました。
やはり、経験値を積むことによる「慣れ」や訓練の積み重ねというのは人間にとってとても重要な事のようです。
そうこうしている内に数分で揺れも収まりましたが、携帯のアラートは依然津波の危険性を発しています。
とりあえず情報の収集をと思い、スマホの地震情報を検索しますが、緊急、緊急、というばかりでいまひとつ正確に情報が掴めません。
私たちが居た場所は日本海側の若狭地方であり、もちろん津波の危険性はあります。
私はまず、次の事を考えました。
東日本大震災級の津波が来たと想定して、今いる場所が安全な位置(距離)や高さ(標高)なのか否か?
津波の到達の可能性があれば、どこに逃げるか? 逃げる手段は徒歩か車か?
そもそも、地震の規模や震源地、今後の見通しはどうなのか?
その時です、家の中にある有線放送のスピーカーから「能登地方で地震です」「テレビやラジオをつけて情報を得てください」「身の安全を図ってください」という放送が大音量で流れてきました。
そこは地方の農村地帯、ど田舎の集落なので、令和の現代でも町営の有線放送の設備がまだ各家々にあるのです。
田舎の小さな町で正月の1日から役場に詰めていてくれる職員さんがいることに驚いたり感謝したりしながら、私は我に返り、義母宅の居間にある大型のテレビをつけ、次の揺れが来たらすぐに逃げられるように玄関の引き戸を開け放したまま、玄関口でテレビを見ました。
常日頃、情報収集をスマホに頼ってばかりいるので、緊急の時にもその癖が出てしまいました、今思えば視野が狭くなっている証拠で良くない事だと思います。
NHKの放送画面からは震源地や震度、津波の危険のある地域などが日本地図になぞらえて、わかりやすく伝えられていて、アナウンサーは「津波が来ます逃げて下さい!」「直ちに高いところ、海岸から少しでも遠い所に逃げて下さい」とややヒステリックなトーンで繰り返します。
こういう緊急時にはスマホの情報よりも、TVなどから垂れ流される一方的な情報の方が分かりやすく便利な側面もあるのだと、再認識しました。
私がテレビからの情報で、震源は能登半島(当時は佐渡島だと思っていた)であり、福井県の若狭地方はもちろん、京都府や兵庫県の日本海側にも津波の危険があることを認識しているとき、娘はスマホの地図情報を使い、現在地は海岸線からは4kmと近いが海岸との間に小さな山が一つある事や津波が能登半島側からやってきても、その山を回り込んで押し寄せてくる可能性もないこと等を確認してくれていました。
このように情報の収集を手分けして行ったおかげで、現在地は津波の襲来は心配しなくてよいこと、震源地は現在地からは250km以上離れていること、周辺地域の震度情報などから広域に大きな揺れのある地震ではないこと、今回動いた断層は現在地付近には繋がっていないこと、などが分かりました。
余震に十分に注意しながら一旦家の中に戻り、いつでも逃げられるように玄関の引き戸は開けたまま、玄関に一番近い居間でコートを着ながらヒューヒューと風が吹く中、80歳の義母に情報のすべてを話して聞かせて安心してもらいました。
これが地震発生時の状況なのですが、このあと出発時間を大幅に遅らせてとりあえずの安全を確認した上で、今夜寝る位置、非常用の持ち出し荷物を枕元に置くこと、服を着たまま眠ること、防寒着は枕元に置くこと、その他様々な注意事項を義母に話してから、帰路につきました。
阪神淡路大震災・東日本大震災と比べて思うこと
私が阪神淡路大震災に被災した時は、大阪府で唯一激甚災害地域に指定された豊中市に住んでいました。
忘れもしない、平成7年1月17日(火)5時46分 ドスンドスンと下から突き上げるようなというか、建物ごと高い所から落とされたようなというか、激しい縦揺れ、いや揺れという表現ではなくダンプカーのような巨大な物体が床下から突っ込んで来たような衝撃に飛び起きました。
数秒後、今度はゴゴゴゴ~というような地鳴りと共に横揺れではなく斜めに揺すられるような揺れが発生しました。
当時マンションの4階に住んでいましたので、その様な揺れ方になったのかもしれません。
私は「ただ事ではない、建物が崩れるかもしれない」そう思い咄嗟に横で寝ていた妻と当時4歳の娘の上に覆いかぶさりました。
その瞬間です、私の真上に位置していた吊り下げ式の照明器具が振り子の用に天井に激突し、ガシャーンという音と共にチェーンと配線が切れて数秒前まで私が寝ていた場所に落下してきて粉々に砕けたのでした。
布団から飛び出して妻と娘の上に覆いかぶさるように移動していたので、直撃を免れたという奇跡でした。
数分で大きな揺れは収まりましたが、住居の中は食器棚から食器が飛び出し散乱し、本棚の本や棚の中のものは床に散らばり、テレビはテレビ台から転落する惨状でした。
幸いにも建物の倒壊やサッシ類や窓ガラスの崩壊は免れました。
娘は昨晩寝る前に見た「秋田のなまはげ」のニュースが記憶にあったようで、「鬼が来たの?鬼がやったの?」と怯えて泣きじゃくっていました。
当時、関西では殆ど地震はなく、初めて体験する大地震に遭遇し、只々呆然としていたのを覚えています。
私が今回の能登半島地震の発生直後に理路整然と判断して対応を考えられた事からは想像もできないくらい、ダメっぷりでした。
もちろん、家族を守らなくてはという意識は強くありましたが、地震に対する情報や対応の知識が全くなかったのです。
その時、一番印象に残っているのは電話が一切通じなくなった事です。
物理的に電話線が切断された場所もあったのでしょうが、一斉に安否確認の電話が使用された事で輻輳という状態が発生し電話回線(交換機)がパンクしてしまった事が原因でした。
当時はスマホなどはもちろん出現前で、一世を風靡したポケベルが終焉に近づき、後にガラケーと呼ばれる携帯電話が最新の通信手段でした。
固定電話が主流の時代でしたので、最初は携帯電話だけは僅かに繋がったのですが、すぐに携帯も繋がらなくなってしまいました。
あの阪神淡路大震災から16年後に東日本大震災、更にその5年後に熊本地震が発生しています。
そして約8年経って今回の能登半島地震が発生しました。
この4度の地震を経験してまず私が思うこと、それは明らかに人々の地震という災害に対する防災意識が高まっていることです。
個々人の意識が高まり、避難場所や避難経路の確認、災害時に取るべき行動を意図せずとも学習せざるを得ないほど情報が提供されています。
もちろん、そういった意識の元に企業の努力や法的な規制により、建物の耐震強度も格段に上がってきました。
そして、インフラの整備による通信の確保の問題、阪神大震災の時は通信が全く遮断されてしまったような状況が続きましたが、やはり東日本大震災時にも輻輳による通信障害は発生しました、しかし通信各社がお互いに回線を融通しあったり、適正な通信規制をかけ重要な通信を確保するなど、阪神大震災の教訓をもとに対応策が練られていたほか、災害用伝言ダイヤル171が開発されたり、当時はなかったLINEやX(ツッイター)などのSNSで安否確認をする事も可能になったので、通信インフラに関しては格段に改善した気がします。
なんだか、とりとめの無い文章になってしまいましたが、もともと備忘録のような記事だったのでお許しください。
過去の地震を教訓に人々は良い方向に向かっているのか?
以下に感じた事をまとめてみました。
阪神大震災では多くの教訓を得ましたが、津波の教訓は得られませんでした。
そして、東日本大震災での津波被害の教訓をもとに、今回の能登半島地震ではNHKのアナウンサーの恐怖を煽るほどの津波からの避難の呼びかけ、人々がパニックになるのでは?などという批判もありましたが、私は「例え空振りでも良い、批判は甘んじて受けるが人命の尊重が第一」という風にもとれるNHKの肝の据わった判断のように思えました。
このように、人々は過去の多くの尊い犠牲を元に教訓を得て、災害に立ち向かっています。
それは個人も物を作る企業も法的な整備をする政府も、みな同じ気持ちだと思います。
最後に
しかし、今回の能登半島地震で非常に残念に思った事が一つあります。
今回は「能登半島」つまり半島というある意味特殊な場所で起きた災害です。
地震の規模と立地を考えれば、被災地は半島であり周囲は海に囲まれ、救援アクセスは南から北への一方向からに限られ、只でさえ少ない道路網も地割れによる道路の亀裂で寸断され被災地が孤立する事は素人目にも容易にわかりました。
政府は自衛隊の派遣を数日間に渡り小出しに増員して行きましたが、まず人命救助の限界の72時間、そして避難している人たちの食糧や排せつ、寝る場所や保温など最低限の命を守る生活の為の支援を考えれば、発生直後から最大限の人員と大量のヘリコプターや重機の投入などを即座に判断すべきだったと思います。
インフラの整備や法整備は教訓を元に時間をかければ出来上がります。
しかし、こういった緊急時に「適切な英断」を瞬時に下せるリーダー(政治家)が居ない事が残念でなりません。
最近、chatGPTの事が取りざたされており、近い将来AIに仕事を奪われる職種がたくさんある等と言われていますが、政治家が災害時に思い切ったリーダーシップをとれないのなら、できる限り人命を尊重するデーターを学習させたAIを災害発生時の指示を出す為のリーダーとするような事も考えなければならないかもしれません。
我々が今回の能登半島地震で得た教訓をもとに夫々の立場で努力し、今後再び起こりうる避けることのできない災害に立ち向かって行く事が、この度の災害で命を落とされた方々の御霊にこたえる事にも繋がるのではないかと思います。
脚注